私たちが『愛』であるという証①
美しい朝日や夕陽、
今夜のような美しくも儚くパワフルな月、
澄んだ青空、
美しい草花、
暖かい陽射しや頬を撫でる風、
ありのままの自然を感じると、
世界に無条件に愛されてるなぁって感じます♡
♡
この世界、そして私たちという存在が、『愛』そなものであること。
スピリチュアルに関心がない方でも、耳にしたことあるのではないでしょうか(*^^*)
こうして美しい自然に触れた時、
世界中が心を一つに祈った時、
誰かの愛に触れた時、
この世界、私たちの本質は『愛』だなぁと感じることはあります。
しかし、私たちが『愛』であるという、
その根拠って、一体何でしょう?
♡
私は十数年前まで、自分には『愛』がないと思っていました。
なぜなら、他人どころか親や親族に対しても関心がなく、全てにおいてどうでもいいと思っていたから。
母が自死で亡くなった時も涙は出ず、
むしろ私のその『愛』の無さが、母を殺したのではないかと思っていたからです。
しかしあることをきっかけに、
自分には『愛』があったことを発見し、歓喜しました。
そしてその後は愛に満ち溢れた存在として生きることを宣言したものの、何をしたら愛として生きていることになるのか?
自分が満たされているところから、人に与えることなのか?
しかし自分を満たすこともままならず、人に愛を与えるだけのエネルギーがないことにジレンマと、
愛を与えたつもりでエネルギーを使っても、相手も自分も何故か満たされないことがあり、
愛とは何なのか?
自分はどう生きていきたいのか?
方向性や生きる意味を完全にロストしていました( ;´Д`)
そんな時、トリニティと出会い、
自分が何のために生まれてきたのか?
なぜ自分は思い通りに生きられないのか?
何のために生きたらいいのか?
が、明確になり、私のジプシー人生は終止符を打ったのでした(*^^*)
♡
私たちは、神と無条件に愛し合い、神と共に無限を創るために生まれました。
だから私たちは、誰から教わることなく「愛したい・愛されたい・愛し合いたい」という本能を持って生まれてきたのかなと思います♡
しかし、いつかは終わる有限の命である肉体をもって生まれてきたことで、
全てが制限され、条件付けられ、
「愛したい・愛されたい・愛し合いたい」と思っていても、そうなれないジレンマを抱え、
いつしか相手の顔色を窺ったり、我慢したり、遠慮したり、諦めたり、見ないフリしたり、自分の本心を誤魔化して生きることに慣れてしまいます。
この「愛せない・愛されない・愛し合えない」という体験を積み重ね、思考や感情は無意識にそこに縛られ、愛を条件づけているんですね。
ではここで、実際どんな条件付けがあるのか見てみましょう。
▶︎あなたが親、またはパートナーから愛されていると感じるのはどんな時ですか?
▶︎逆に愛されていないと感じるのはどんな時ですか?
是非書き出してみてください♡
つづく。
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