∞聖母マリアの眼差し∞

慰めや励まし、共感のコメントは不要です。私はもうそこにいません。なぜ動画を投稿したのか?神がアップしろと言ったから。しかもノーカット・ノー編集で。こんな動画、公開していいものか?見た人に心配かけるだけなんじゃないか?何の役に立つのか?アップしろと言ったのは本当に神なのか?それをどう確かめたらいいのか?分かりません。ただ、アップすれば分かる。そんな感じです。

∞そうか。私が○○さなくていいのか。∞

7月17日に受けたREBORNセッションで、「私は愛されるかどうか以上に、愛することの方が怖かった」ことに気づき、そしてマグダラのマリアとキリストから、「もう、愛することを恐れなくていい」と言われたことについて、自分がなぜ愛することを恐れていたのか?愛することを恐れなくていいと言われたけど、どうしたらいいのか?というところで止まっていました。それが最近になって、「もう、愛することを恐れなくていい」とは、どういう意味なのか?それを言った、マグダラのマリアとキリストが観ているものは何なのか?やっと、自分フォーカスから抜け出して考えるようになってきた感じです😅そしたら、一週間くらいまえに「そうか」と思ったことと繋がった気がしました。「そうか。私が愛さなくてもいいのか(°▽°)」「私」は有限で、アトラクションそのもの。無条件に愛し、愛され、愛し合うことはできない。だから、無条件に愛を与えている父なる神の観点を観る。無条件に愛を受け取り委ねている子なる神の観点を観る。父なる神と子なる神が無条件に愛し合っている精霊なる神の観点を観る。父なる神と、子なる神キリストが無条件に愛し合っている、その交わりを観ている聖母マリアの観点を観る。ずっと言われていたし、自分でも言っていたけど、本当の意味で理解していませんでした。今も100%ではないと思います。ただ今回も、自分がどれだけ的外れな所にフォーカスを...

∞なぜ愛するのが怖いのか∞

今回も温泉施設からお届けします💕「愛されるかどうか以上に、愛することが怖い」て、気づいたものの。正直、「愛されるかどうかも同じくらい怖いわ!ヽ( ̄д ̄;)ノ」と思いました😅まあ、動画では話してませんが、基本私はケチなので、与えたら減ると思ってるし、与えたからには見返りを求めるし、基本、損得で考えます😆これが「アトラクションの私」が思うことです。そこで、『無条件に与える父なる神の観点』を観た時。神って、与えっぱなし!?(´⊙ω⊙`)私たちが神に不平不満を言おうと、存在を否定しようと、ただただ、与え続けている。相手が受け取ろうが受け取るまいが。そんなことが可能なのは、常に自分自身を無条件に愛し、無条件に愛され、、無条件に愛し合って自己充足している『三位一体の神』だからこそ😆人間一個人がこれをしようとしたら、いずれは枯渇します。誰にでも、分け隔てなく、関係性を超えて無条件に愛を与えるのは、普通の人間には無理。少なくとも私には絶対無理!😂だけど、全人類と、神と、無条件に愛し合いたーーーい!!😆💕💕💕と、本能が叫んでいます笑できるできないは別として。何故そうしたいのか?本能なので理由はありません!あえていうなら、共同創造するため🍀何故、共同創造したいのか?自分の価値を証明するためだったら、余計しんどいだけだし、そんなんじゃ共同創造にならない!共同創造は「したいかしたくない...

【1000人プロジェクト〜無限の命の花を咲かせよう🌸】祝❤️1000人超え🌸✨

2018年12月24日。エジプトのアビドス神殿にて、フラワーオブライフの真実が告げられ。2019年1月には、フラワーオブライフのエネルギー伝授と、お話会全国ツアーが始まり、フラワーオブライフが復活後のイエス・キリストを象徴していること、超古代文明の頃からフラワーオブライフは存在し、その目的、用途を誤ったためにアトランティスは滅んだこと、このフラワーオブライフの種子を受け取り、無限の命の花を咲かせることが、本来の目的であることなどが明かされていきました。私がこのフラワーオブライフを受け取った時は、これまでに感じたことのない充足感と、祝福に満たされ、これが無条件の愛なんだと、魂から細胞の隅々まで沁み渡りました。復活後のキリストと会ったのは、その時が初めてで、明らかにこれまで感じたり見たりしてきたキリストとは違っていました。そこでキリスト言われたこと。今でもはっきり憶えています。「私の子を産みなさい」これは「フラワーオブライフの種子を撒きなさい」ということだと後々理解しました。しかしその時点では、フラワーオブライフを伝授できるのはイスラエル・エジプト・パリのご神事に参加したメンバーのみでした。そして3月。初のフラワーオブライフ伝授マスターセミナーが開かれました。もう、この有限の命を、ただ喜怒哀楽を体験して終わるだけで消費するのは嫌でした。神が私を、この世界を創った目的があるのなら、無限の...

真の絶望と希望の間。

Mayoです。ここ2、3日。もっと見たくない部分が浮上してきました。頭の中は、「どうやったら恐れを手放せるのか?」という思考と、恐れを手放せない自分に対するジャッジ、いつまでも恐れを握りしめて、神の邪魔をしていることの罪悪感で胸が圧迫されて息苦しい日々でした。そして、恐れの根っ子以上に見たくないものを見なければならない切迫した状況。見たくなさ過ぎて「分からない」ループにハマっています。恐れを手放さない理由(メリット)は何なのか?神との約束を果たしたいと言いながら、それ以上に大事にしている何かがあるから、あれこれ理由を付けてやらない自分がいるという、認めたくない事実。また見たくない、怖い、分からない、見たくない、怖い、分からない、見たくない、怖い、分からない、の無限のループ。そしてふと、気づいてしまいました。『絶望』は究極の逃避なのだと…死にたくなるくらい苦しいのに、『絶望』してる方が楽なんだ…それ以上見なくていいもんね。被害者ぶってればいいもんね。動かなくていいもんね。そして思った。【死】=『絶望』ではないんだなと。頭では何となくそう思っていたけど。真の『絶望』を体験したら、「死にたい」とか「死のう」とも思わないんじゃなかろうか。そして、「死にたい」「死のう」という時。それは【生】に対する『絶望』であって、【死】に対しては「楽になれるかもしれない」「苦しみから解放されるかもしれない...

自問自答…??

そろそろ本気でハゲそうなMayoです☆すごくすごーーく満たされていて、この状態がこの先ずっと続いたら怖いもんなしだ!っていう時が何度かあります。何故その状態を保てないのだろう。ずっと満たされた状態を維持して、そこから魂の使命を生きられたら最高なのになと思う。けど実際は保てず。死にたくなるくらい絶望する。何故なのかは何となく分かってる。ここのところ突きつけられている、自分の見たくないものを見ていないからだ。自分の汚いところ、世界の汚いところ、全てと向き合っていないからだ。罪悪感はまだ私の胸を痛めつけている。この苦しみから解放されたくて、何とかしようと頭の中はグルグルしている。分析したり、ポジティブに転換しようとコントロールしようとしたり、無意識に向き合うことから逃げようとしてしまう。だからあえて罪悪感にフォーカスをする。どれだけ深い闇や罪悪感、孤独を捉えるかに比例して、その対極にある光やポジティブなものを捉えることができるからだ。私の汚い醜いところが明らかになればなるほど、私の無限の可能性とポテンシャルは発揮されていく。正直、なんでこんなに苦しい思いをしなきゃいけないんだと投げ出したくなる。もっと楽に生きる方法あるだろ、と。何でだろ。ドMだからかな?いやいやいや。そこまで変態じゃない。はず。どんなに苦しくてしんどくて、死にたくなるくらい絶望しても、結局辿り着くのは「神との約束を果たし...