真の絶望と希望の間。



Mayoです。




ここ2、3日。
もっと見たくない部分が浮上してきました。




頭の中は、「どうやったら恐れを手放せるのか?」という思考と、
恐れを手放せない自分に対するジャッジ、
いつまでも恐れを握りしめて、神の邪魔をしていることの罪悪感で胸が圧迫されて息苦しい日々でした。




そして、恐れの根っ子以上に見たくないものを見なければならない切迫した状況。


見たくなさ過ぎて「分からない」ループにハマっています。



恐れを手放さない理由(メリット)は何なのか?




神との約束を果たしたいと言いながら、それ以上に大事にしている何かがあるから、あれこれ理由を付けてやらない自分がいるという、認めたくない事実。





また
見たくない、怖い、分からない、
見たくない、怖い、分からない、
見たくない、怖い、分からない、
の無限のループ。





そしてふと、気づいてしまいました。




『絶望』は究極の逃避なのだと…





死にたくなるくらい苦しいのに、『絶望』してる方が楽なんだ…




それ以上見なくていいもんね。
被害者ぶってればいいもんね。
動かなくていいもんね。







そして思った。





【死】=『絶望』ではないんだなと。






頭では何となくそう思っていたけど。


真の『絶望』を体験したら、「死にたい」とか「死のう」とも思わないんじゃなかろうか。




そして、「死にたい」「死のう」という時。
それは【生】に対する『絶望』であって、【死】に対しては「楽になれるかもしれない」「苦しみから解放されるかもしれない」という『希望』がある。




【生】も【死】も。
『絶望』も『希望』も表裏一体なんだ。




そして、『真の絶望』と『真の希望』は、イコール【無条件の愛】なのかな。








私が恐れを手放さない理由(メリット)も、汚い自分では無条件に愛し合えないと思い込んでる理由(メリット)も、結局まだ掘り下げられてはいません。
恐れもなくなってません。



でも、何だか分からないけど心臓が胸から飛び出しそうなくらい、興奮している自分がいます。
 


私が見たくなくて「分からない!」て頭パンクしそうになっていても、
神は全て観ているし、全部分かっているし、その上でそんな私を無条件に観て、交わっているんだ。




もう…
神の愛が壮大過ぎて受け取りきれません_:(´ཀ`」 ∠):






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éveil〜生まれてきた理由・無条件の愛を生きたい人へ〜

あなたが抱く、ネガティブな感情・過去の後悔や罪悪感と未来への不安を考える思考・他者との分離によって感じる孤独感や不信感、無価値感も、 全ては無条件の愛を創り出すために体験することを意図された「アトラクション」だとしたら? どんなに幸せを求めても、幸せになったとしても一時的で、死んだら終わりな有限の命。 人に愛されるかどうか?人生が良くなった悪くなったと一喜一憂する生き方から卒業しませんか?

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